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会堂建設へ 指定文化財 山下りん


【会堂建設へ】
畠山市之助家の仮祈祷所から・・・
 
曲田地区の信徒は「曲田福音会」として明治12年以来10余年、畠山市之助の家を仮祈祷所にしてきたが、信徒増加に伴い祈祷所は大いに不便を感じるようになる。市之助は明治24年3月8日、東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)の成聖式(施行式)に上京し、煉瓦造りの丸いドームを抱いたビザンチン様式の聖堂に感銘をうけ、いよいよ曲田にも聖堂を建てようと決意する。
 工事は主教ニコライに願い、東京神田教会の信徒でもあるシメオン貫洞を大工頭領として派遣してもらい、地元の大工を指導して、約3ヶ月をかけて完成した。 かくして総工事費350余圓をもって畠山家敷地内にニコライ堂を模して秋田杉で建てられた教会堂は『生神女福音会堂』として明治25年7月31日、司祭ボリス山村雄五郎神父により成聖される。 当日は大館、花輪、能代各教会からも信徒が来会し、見物人は門前市をなす程のにぎわいであったと報告されている。



会堂の設立のその沿革・・・
 大館市の中心からおよそ東へ6キロメートル離れた、曲田地区の一角に北鹿ハリストス正教会会堂が建っている。 この会堂は、啓蒙所に掲げられた『祝詞』によると、曲田の最初の信者であった豪農イオアン(JOHN)畠山市之助(年代不詳)が私財を投じて屋敷内に建立した「会堂」である。
 会堂建立以前、十数年間は畠山氏私邸をもって仮祈祷所として使用してきたが、信徒増員に伴い不便を来したので会堂建立を決意したとあって、明治25年(1892)およそ3ヶ月の工期を経て同年7月31日に竣工(成聖)式が行われた。
 この会堂は昭和60年に解体修理が行われたがその設計者、施工者等に関する記録は発見されなかった。勿論この修理においても部分修理(壁面、開口部、窓、塗装等)のため、その発見には至らなかったが、当時の記録が保存されていたと考えられる日本ハリストス正教会教団本部(東京神田駿河台ニコライ堂)もまた、関東大震災によりその資料が焼失したため不詳である。
 一説には畠山氏の招聘を受け東京から信徒であったシメオン貫洞が来秋しこれに地元の大工2名が加わり、この聖堂の設計・施工を担当したと伝えられている。 シメオン貫洞はニコライ堂の建設工事に携わり、当時、工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)教授、ジョサイア・コンドルに指導を受けたという。
 会堂は畠山氏が所有していた山林の秋田杉の良材をもって建立された木造平屋建築で、建立後幾度となく姑息的な修理が施されてきたが、先にも触れたが昭和60年に地元大工により一部解体修理され、今日にその姿をとどめている。
 現存するハリストス正教会の建築において木造平屋建教会では日本最古の建築であり、この上からでも非常に貴重な遺構である。
(『北鹿ハリストス正教会聖堂保存修理工事報告書 大館教育委員会』より)
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シャンデリアについて:
 当管轄教会会報に掲載されたシャンデリアのエピソードをご紹介致します。

正教会のシャンデリアには単に堂内を明るくするという便宜的な意味の他に「天空の星々」を象徴的に表しています。
聖書では、天体の光は至と高き所にいます「神の光栄」を顕していますので、シャンデリアは上から降ってくる「神の光」、すなわちハリストスの光をかたどっています。
★曲田会堂のシャンデリアの由来★
 北鹿ハリストス正教会の曲田生神女福音会堂は、明治25年建立の古い建物ですが、中にあるシャンデリアは、もともと愛媛県松山市に建てられた復活聖堂にあったものです。
 日露戦争の時に松山市にロシア兵士たちの捕虜が収容され、百人近くの人々がそこで永眠しました。彼等の安息を祈るため、日露戦争終了後に松山に聖堂が建立されました(明治41年)。聖堂建立のための費用はすべてモスクワの大富豪クセイア・フェオドロヴナ・コレスニコワ姉の献納によるものでした。
 ところが、大正12年の関東大震災でニコライ堂が崩れてしまい、やむをえず松山の復活聖堂をそっくり東京まで移すことになりました。
 ニコライ堂境内の中に移築された旧松山聖堂は、奇跡者ニコライ聖堂となり、老朽化のために解体されるまで使用されました(昭和37年)。
 旧松山聖堂にあったイコノスタスは大阪の庇護聖堂に、他のイコンはニコライ堂の中に、鐘は函館に(供出のため現存せず)、そしてシャンデリアは北鹿の生神女福音会堂に運ばれたのです。

こんな由来をもった当会堂のシャンデリアは、慈しみに溢れる光(神の光栄)として私達を包んでくれます。






【秋田県指定文化財】
<建造物>: 文化財指定  昭和41年 3月22日
 会堂全体の構造は、玄関、啓蒙所、聖所、至聖所の各室が縦に並んでいて、このうち聖所は左右に張り出しがあって平面十字形をあらわしている。 屋根は寄棟造で、左右に突出して切妻を見せ、中央に高く八角錐の屋根をかけ、先端に球蓋と十字架をのせている。
内部を見ると、聖障と聖所正面ドアの取手金具座金に「CORBIN US」の陽刻銘があり、アメリカ製であることが認められる。シャンデリアはロシア製で、日露戦争当時松山の俘虜収容所内の聖堂にあったものである。
 会堂内の聖像画(イコン)18点は、我が国初の女性油絵画家(聖像画家)イリナ山下りんの作品で美術史上貴重なものである。これらは、他の1点とあわせて計19点が大館市文化財に指定されている。

 会堂の建築は、本来煉瓦造りか石造りであるが、当教会の会堂は秋田杉をたくみに加工し、聖所の架構法も四方から木製アーチをのばしてドームをかけるなど、貴重な木造ビザンチン様式建造物である。総体的には、明治時代擬洋風建築として文化史的価値があると同時に、このような東北地方の農村にまで分布したハリストス正教会の会堂遺構として地方的意義のあるものである。
(『大館市の文化財』より)
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【山下りんのイコン】
 この会堂内部正面にはハリストス(キリスト)やマリア、天使、福音記者などの油彩のイコンが整然と設置されており、美術的にも貴重な存在である。イコンとはギリシャ語で「像」の意味であり、「神の国を伝えるイメージ」である。曲田会堂のイコンはこの会堂に合わせてイリナ山下りんが描いたものである。
 山下りん(洗礼名 イリナ)は、安政4年(1857)上州笠間(現茨城県笠間市)で生まれた。 明治10年、20歳の時創立まもない上野の工部美術学校に学び、正規の洋画教育を受けた日本で最初の女流洋画家として注目されている。絵画科の教授フォンタネージュ(イタリア王立トリノ美術学校教授)から指導を受け、才能を伸ばしていく



 明治13年12月~16年4月の2年間、ニコライに薦められて単身ペテルスブルグ(旧レニングラード)の女子修道院に留学。イコンを学びながら、エルミタージュ美術館にも通い、イタリア・ルネッサンスの宗教絵画も学ぶ。帰国後、東京神田駿河台の女子神学校の宿舎に住まいしながら日本正教会の為に多くのイコンを手がけるが、大正7年に故郷の笠間に帰り、昭和14年(1939)1月26日82年の生涯を閉じる。彼女の作品はイコン(聖像画)という特異な分野での作品であるが、ルネッサンス初期のイタリア画家の手法も感じられ、女性らしい柔らかい感情のこもった表現は美術家の中でも高く評価されている。
 曲田会堂のイコンは、明治24年~25年の製作で、彼女が35歳の時であり、ロシア留学から帰国して8年後の事であった。同時期の作品として明治24年ロシア皇太子ニコライが訪日した時に献上された蒔絵装庁の「主の復活」がある。(
現エルミタージュ美術館蔵
 曲田の会堂は明治時代の擬洋風建築として文化的価値が認められ、昭和41年3月22日秋田県から「現存する我が国最古の木造ビザンチン様式教会堂建築」として重要文化財の指定を受けている。一方、会堂内のイコン19点は近代日本の黎明期における洋画法を用いた例として美術史上の価値も大きく、平成3年9月3日大館市の文化財に指定され、訪れる人を魅了している。
(『北鹿ハリストス正教会聖堂保存修理工事報告書 大館市教育委員会』より)     
 



 山下りんのイコン

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